今更ながら『容疑者Xの献身』を観た話

 

※この記事にはネタバレが含まれているため視聴前の閲覧は推奨できません

 

 ガリレオを観ようとしてネットフリックスで検索しても出てこなかったので、『容疑者Xの献身』を見ることにした。東野圭吾原作映画は揃っていたので。

 

 初めに言っておくが、自分は読書録ブログを作ろうと思い立つ人間であるが、ミステリというジャンルにあまり手を付けてはこなかった。というかむしろ自分は東野圭吾はドラマ『ガリレオ』でしか通ったことがないためミステリの事も東野圭吾の事も何も分からない。その上で映画『容疑者Xの献身』の感想を書いていることを留意されたし。

 

結論から言うと、石神の献身は本物だった

 

 ネタバレの注意書きはしたので好き勝手書いていく。何度も言うが絶対ネタバレを見る前に初見で映画を見た方が良いし、『容疑者Xの献身』は見そびれたな~という人は今からでも観てご自身でも何か感じていただきたい。つまらなかったでも面白かったでも良いので。(あくまで個人の主観であり、私個人に閲覧者の意志を変える権限は何一つないが……)

 

 

 さて献身が何をもって本物とするかは各自の主観による。花岡親子が富樫慎二を殺したのは映画の冒頭から自明であるし、本作はそこから始まる。既に誰が誰を殺したのか(視聴者は)分かるのにそこから面白くなることはあるのか?……隣に住んでいた数学の天才、石神哲也が力を貸したのなら。

 

 湯川と同期である石神という男は徹底的に冴えない。かつて湯川に数学の天才と言われ数学科の研究室に身を置くかと思えば、親が倒れたこともあり今はおよそ学問にすら全く興味が湧かないような学生ばかりの高校で数学の教師をしている。『数学はどこでも出来る』石神はその言葉をモットーに狭いアパートの一室で数学漬けの暮らしをしていたが、はたして天才と呼ばれた彼はそれで満足できただろうか。答えはきっと否であるのだろう。そうでなければ首を括る事など考えない。

 

 石神が自死を選んだ理由は少なくとも映画本編では語られない。そう選びたくなるだけの環境がそれとなく分かるだけである。人生に絶望し首を括る直前に現れた花岡親子の、何と明るく希望のある人々だったであろうか。石神は差し出された『つまらない物』を食べ、花岡靖子のお弁当屋に辿り着く。

 

 天才とは往々にして孤独だ。(ガリレオでいう)帝都大学内ならまだしも、あの高校の教室で数学の授業を行っていた石神は自分の価値観が孤立していることをより強く感じていたのかもしれない。誰とも自分の喜びや面白さを分かち合えない感覚、推測される倒れた親との関係性、それが毎日続いていく絶望。そんな中で、掛け値なしに差し出された『つまらない物』や花岡靖子のお弁当の美味しさ、花岡親子の希望に満ち溢れた光景が、石神を生かした。石神が、容疑者Xの献身を始めるきっかけだった。

 

 ……私はこの映画を最後まで観た時思ってしまうのだ。もう少し早く湯川と石神が再会していたら、と。それか、石神が晴れて数学科研究室に身を置いていたらと。そうでなくとも、石神の両親が健全であったならと。

 

 全く論理的ではない。湯川は物理科で、石神は数学科だ。湯川曰く物理学と数学の研究のアプローチの仕方は全く逆で、物理学と数学は接点はあれどやはり異なっていて、富樫はクズだし、花岡美里はスノーグローブを振り下ろしてしまった。そして花岡家と石神の部屋は隣室であった。

 

『石神という男は、自分の容姿を気にするような人間じゃなかった』

『その時僕は気づいたんだ。彼は恋をしていると』

 

 動機なんてものは、全く、論理的ではない。

穴のないアリバイを作るよりも殺人の方が容易いと言われた石神は、無辜のホームレスを殺してまで、花岡靖子に献身した。それもまた、自分こそが確実に犯人であると見せかけるため。

 

 ……自分は、石神が恋に狂ったあまり工藤邦明を消そうとするんじゃないかというところに冷や冷やしていた。正直に言えば石神が花岡家の命運を握っている中で、花岡靖子を手に入れるため『献身』を行っていたのか?と。数学の天才石神がそこまで落ちて良いのかと。

 

 その筋書き通りなら、今頃『容疑者Xの献身』はここまで語り継がれなかっただろう。劇中に流れる『荒野の果てに』がこんなにも美しく響くことは無かっただろう。

 

 石神にとって、花岡靖子をストーキングしていたこともまた計算の内だった。そこにあるのは安っぽい独占欲や嫉妬などではない。そんなことは彼にとっては全くどうでもよかった。石神もむしろ工藤と付き合った方が幸せになる確率が高いと手紙に書いている。この一連の行いは全て石神こそが真犯人だと思わせるため、そして花岡家が無罪になるための、容疑者Xの、献身だ。

 

 私はここに、献身の本物のようなものを見出した。石神という人間が天才と呼ばれる根拠を実際に叩きつけられた気がした。この素晴らしい頭脳がこんなことに使われなければ、と、湯川と共に嘆く程に。

 

 殺人は罪である。どんなに富樫がクズだとしても、ホームレスだからといっても、いけない事である。石神は罪を犯した。『献身』のために。そして『献身』とは即ちエゴである。無辜のホームレスを歯車にした石神の献身は本物であり、だからこそどこまでもエゴであった。美談ではない。決して。だから湯川も私も嘆くのだ。

 

石神の救済

 ただしラストは、花岡靖子が自らの意志で自供しようと警察や石神の前に現れ泣き崩れる。そしてエンドロールでは恐らく本当の富樫の死体を捜索して、割れたスノーグローブが発見されたシーンが差し込まれる。

 

 石神にとって望む結末は、自分だけが罪を被り、花岡親子に幸せになってもらうことだった。ラストに花岡靖子が来たのは、恐らく手紙を読んだだけでなく、湯川が石神の行った全てを話したことも関係しているのかもしれない。

 

 石神は、本当は湯川と山に登った時、彼を、蹴り落してしまえば良かったのだ。そうでなくとも吹雪の中で見捨ててしまえばいずれ湯川は雪の下だったろう。石神自身も湯川は危険な男だと分かっていた。湯川が全てを暴くことも考えていた。

 

 にもかかわらず戻ってきて湯川を助け起こしたのは、やはり湯川に対して思う所を捨てられなかったのだろう。『友達なんて居ないよ』と言っておきながら、拘置所に送られる前に湯川の『仮説』を聞いたのも。

 

 『ごめんなさい』

 『私も罪を償います』

 『私たち二人だけで幸せになるなんて出来ない』

 

 その後石神は花岡靖子の自供を否認し続ける。それは石神の望む結末ではない。ゲーム的に言えば、トゥルーエンドよりもハッピーエンドを目指したからだ。だがそれは、少なくとも私自身は救済に見えた。石神はずっと孤独だった。絶望の淵に現れた花岡家に献身をすることが最後の務めだというような顔をしていた。そんな石神に、花岡靖子は独り善がりで勝手に自分だけが罪を背負うなと暗に言っているようだった。

 

 人を殺した罪は重い。しかし償いという形がある以上、石神にはまた生きなければならない目的が増えたのではないかと私は思う。孤独だった天才が漸く誰かと繋がれたということは、石神にとっての救済ではないかと、私は結論付けることにしたい。

 

 

全体の感想とまとめ

 ブログ主はミステリと言われて読んでも基本的に「え!?どうなっちゃうの!?」「うわー!こうなってたのか!」と出てくるものが出てきてからリアクションをするタイプであり、正直に言うとミステリ部分よりも人間の感情の揺れ動きを見る方が好きなので、そういった点で『容疑者Xの献身』は取っつきやすく感じた。

 

 悪い点といえば、当然2008年放映(原作自体は2005年が初版、連載開始にいたっては2003年である)ということもあり、やはり警察署内の書き方を始め色々な描写や価値観の書かれ方が古臭いと感じた(唯一の女性刑事というだけでお茶汲みさせられたり、そもそも内海刑事の描写はそれでいいのか?等)が、実際古い作品なので仕方あるまい。現実はもっと良くなってますようにと願うばかりであるが……

 

 ただ、それを加味したうえで観てもすごく楽しめたし、張り巡らされた伏線や謎が明かされていくにつれて石神の天才さが納得いくよう出来ていたし、四色問題のエピソード、お互い違う天井で四色問題を考えるような湯川石神の二人の友情のシーンもすごく良かったので、人情の多いミステリ映画が見たいときに是非オススメしたい。ネタバレ記事を書いているここで言うのも何だが。

 

ただしんみりしたエンドロールの〆でいつものOP曲*1を入れてくるのはどうなのかな~~~~~~!?

 

恒例ということなのだろう。おわり

 

 

 

 

*1:vs.~知覚と快楽の螺旋